コラム
森喜朗五輪前会長の発言を糾弾する前に、何故理事会での長すぎるという発言内容が公示されないのか。これはいかにも不公平に過ぎやしないか。
この地球の運命は
今年の夏北極では何十億トン氷がとけてしまったと言う。
地球の温暖化は日増しに進んでいき間もなく北極海は溶けて大西洋と太平洋は北で繋がってしまう。そうした航海の便宜化がもたらすものは多寡が知れているが、海水の温度の上昇は海水を蒸発させて空に多量の水分を溜めて豪雨となって地上に降りかかり大きな災害をもたらす。この致命的な気象の変化を防ぐためにもうけられたパリ協定を、脳天気なトランプ大統領はデマだと一蹴しアメリカはパリ協定には参加しないとほざいている。
ニューヨークのトランプタワーの豪華なペントハウスに治まっている不動産屋の大統領には目先の利益しか目に入らず世界は目に入らぬようだが、北朝鮮の核を恐れてうろうろするよりも、もっと大きな人類全体の運命の是非を考えるべきだろうに。
北の核を恐れて、兄殺し伯父殺しの酷薄な独裁者の御機嫌とりにうろうろするよりも、地球の自転の遠心力がかかって水位が上がり水没しつつある赤道下のツバルとかトンガといった国に行って本物の危機感を抱いて頭を冷やしたらいい。
私はこの頃になって六十年前に聞いた、あのブラックホールの発見者、天才的な天文学者ホーキングの講演をしきりに思い出すのだ。
講演の後質問が許されて、ある人がこの宇宙に地球のように進んだ文明を持ち数多くの生命体を保有している天体が他に幾つくらいあるかと質したら、彼が言下に二百万と答えた。驚いた次の質問者が「それならば何でそれらの星から人間以外の宇宙人を乗せた宇宙船が実際にこの地球にやってこないのだろうか」と質したら彼が言下に、「そうした高度な文明を備えた天体は、自然の循環が破壊され、宇宙時間からすれば瞬間的に消滅してしまうからだ」と言いきったものだった。
そこで私が手を揚げて「貴方のいう宇宙時間からすれば瞬間的というのはこの地球時間からして何年ほどのものか」と質したら彼は言下に「まあ百年というところだろう」と答えたものだった。あれからすでにもう四十年の歳月が過ぎていった。
最近の異常気象の引き起こす多くの災害を眺めていると、私はどうしても六十年前に聞いた天才ホーキングの言葉を思い返さぬ訳にいかないのだ。彼は勿論神様ではありはしないがこの宇宙の最大の謎だったあのブラックホールの存在を証明し天才だけにその予言はいかにも重い気がしてならない。
この世紀末には地球の温度は平均五度も上がると言う。今在る我々は今何とか生きられるとしても、その頃この地上に生を受けて在る私たちの子孫は一体どういうことになるのだろうか。それを想像し胸を痛めることは彼等の親の親たる今の我々の最低限の責任ではなかろうか。
日本の伝統と個性を守るため 文化遅滞からの脱却を
最近の若い一般の人達と話していると気付かされることがあります。
何か特別の技術系の仕事についている者なら少しは違うのだろうがどうも会話が平板で、年上の人間として逆に啓発されるということが滅多にありません。総じて会話の印象が平板で年代の差を感じさせられショックを受けるようなことが少ない。これは残念な兆候で社会全体の硬直衰退を暗示させられます。
これは様々な技術の進歩がもたらした便宜性のために自分で努力して必要な知識や心を動かす感動を求める心の作業がおざなりになってしまい、簡単に手に入るあてがいぶちの情報に安住してしまい、脳生理学的には安易な作業に感性が埋没してしまい人間の非個性化が進んでいるという現象に他ならないと思われます。
ということで文化そのものの衰退に繋がりかねぬ現況に不安を感じこのような論文を書きました。
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最近の世の中のさまざまな現象を眺めると、かつて社会心理学者のオグバーンが創出した社会変化の新しいパターンの「カルチュラルラグ」、文化遅滞の大幅で顕著な到来を感じないわけにいかない。
文化遅滞の内的な構造とは人間の創意が創り出す諸々の技術の高速広範な進歩に、人間自身の情操が攪拌され社会の現況に沿った健全な精神なり情操の育成が阻害されてしまい、人間の健全な精神や情操が育む所産としての理念なり、それを母体としての正統な芸術なり理念の誕生が阻害されてしまう、目には見えにくい荒廃の現象がもたらされる。それは株の暴落とか自然現象としての災害といった可視的な災難とは異質な、しかし実はもっと根深く深刻な歪みであって、人間の生存を本質的に蝕み人々の人生そのものを歪めて規制しかねぬという深刻な状況に他ならない。
人間の歴をたどれば過去には人間の存在そのものを大きく規制する技術の開発や発見があった。
長く続いた暗黒の時代の中世は、火薬と印刷術の開発と大洋を渡る航海技術によって終焉し人間としての人間性を認める近世が開け、近代から現代に及んでいる。
その後、人間は神の火ともいえる原子力を手中にし、地球とは別の天体の月にまで歩を運んだものだった。そして、その限りでは人間はそれらの新技術という現実にある者は怯えて、吉本隆明氏が画期的な技術を拒否することで人間はまた猿に戻ろうと言うのかと批判をしもしたが、それでもなんとか対応してきはしたものだが、さらに時代が進んだこの今、文明社会に住む人間にとっての第三の植物とも言える情報に関しての画期的な技術の進歩がもたらされると、かつて無いこの情報に関する簡易飽食の時代に実は人間を芯から蝕むカルチュラルラグなる知的な疫病が蔓延しだしているのだ。
それはスマートフォンやポータブルなパソコンによって容易に得られる情報は、蔓延しているツイッターなる情報の字数の少なさが象徴するように情報としては極めて矮小な、非本質的なものでしかありはしない。普通ならば数ページのボリュームで伝えられるべきメッセージが僅か数行の言葉で伝わりきれるものでありはしまい。
その発信者が本気で伝えたい情報は本来かなり複雑かつ高度なものに違いない。
ツイッターとして凝縮されたものは、いわばテレビの興味深い番組の合間に流されるコマーシャルのごときものでしかなく、発信者の真意でありようもない。ただし、それがある巨大な権力者の場合ならば喧嘩の時に取り出して脅す刃物のようなものになり得るだろう。
トランプ米大統領のツイッターを駆使しての脅しは野球でのピッチャーの投げ込むバッターへのすれすれビーンボールみたいなものでしかありはしなく、問題の解決のたかだか糸口にしかなり得ない。
この現代における情報の非本質をツイッターなるある意味で便利で浅はかな情報形態は証していると思われる。
ともかく、この現代に人々は本気でものを読まなくなった。私の親しい早稲田大学の文学学術院の森元孝教授によれば、最近の学生が一年間に買い求める本の数は平均僅か一冊だそうな。大人とて同じようなもので、最近、私自身驚くべき体験を味わわされた。私がものした、田中角栄を一人称で描いた『天才』はお陰で百万部を売るベストセラーになったが、ある時、ある人から「貴方の評判の本をやっと読むことができました」と告げられて質したら、図書館で借り出して読もうと思ったら評判なので、ようやく十七番目に借りられたという。こちらも鼻白んで「評判な本なら自分で買って読んだらどうだ」と言いたかったが堪えておいた。
私の親友、幻冬舎の社長、見城徹に言わせると、当節、本当に本の売れ行きは低下して出版界は大ピンチだそうな。景気の動向はそう低迷している訳でもないのに、人は昔に比べてほとんど単行本を買わなくなったそうな。
その訳は多々あって、図書館の普及に加えて、大方の本、特に小説なんぞはスマホでやりくりすれば重い本を抱えてよりも、手の内にかざして操作すれば簡単に読めるという。しかし、それは所と時を選び、一人でする読書とは質的に異なる作業に他なるまいに。
読書というのは、テレビの番組の合間に目にする寸劇に似たコマーシャルや電車の中の吊り広告を眺めて得る情報の摂取とは全く異質な試みだろうに。
読書の本質とは己が身を置く世界とは異なる世界、異なる人生との遭遇であって、そこで得る感動は自分の生き方を変えてくれさえもしようし、同じ一冊の本にしてもページを行きつ戻りつもして著者のメッセージは十分に咀嚼され、読む者の精神なり、情操に組みこまれていくものだろう。
私が青春の頃読んだ、今はもう流行らなくなってしまったジイドの情熱の教書『地の糧』の『ナタナエルよ、君に情熱を教えよう。善悪を判断して行動してはならぬ』の一節は私の人生の軌道を決めてしまったものだったが。
そうした人生の中での啓示はスマホを操りながらする読書で得られるものだろうか。人間の情操や情念はそう簡単に安上がりで培われるものでありはしまい。
何度読み直しても、その度、また同じように心に触れてくる本のフレーズは読む者だけが心得て、胸というより体に納めて抱える人生の宝だろうが、そうした人生での無形の貴い出会いがスマホで読む読書なるものでもたらされるものだろうか。読書によってもたらされる心の糧とはそう安いものでありはしまい。この私も折に触れ何度も読み直す本、それもその本は私にとって触りの部分がある。そして、何度読んでも同じ感動と言おうか、心が拭われる一種の清涼感を得られる。
例えば戦後の日本文学の中で私にとって最も優れた恋愛小説と思われる福永武彦の『草の花』のラストシーン、かつて旧制高校時代に愛した友人、そして彼の死後に愛したその妹との愛は結局報いられずに、召集を受け狐り人寂しく出征して行く男が汽車の窓辺に顔を押し付け、窓の外に流れる無数の町の灯の中に彼女の住む家の灯を見つけたと信じて、それを懸命に見つめる、愛ゆえの絶対な錯覚の美しさは時代を超えた今でも読み直す度においてのみ可能な恍惚感であって、現代の技術が与える便宜さにかまけた「物」を読むという作業が到底もたらしてはくれぬものに違いない。
真の読書とは美味しい食べ物を何度もかみしめながらあじわう快感と同じで、当座の暇を紛らわす作業ではあり得まい。興味のある種の情報を眺めて後は捨て去る週刊誌の浅薄さは、真の読書によって繋がり得る人生への何らかの啓示をもたらすことなどゆめあり得はしまい。
そして他人という読者に読まれるべき物を書く側の人間も、自分の人生の生き方からの滴りの吐露としてではなしに、ある者は現代の便利な技術体系がもたらす恩恵として世間の動向を容易に察知し、それにかまけての創作に没頭する。言い換えれば、溢れる情報を選択してのマーケティングに則った作業であって日本独自の私小説とは皮肉に対照的な産物でしかない。
その証左がかつて私も選考委員を務めた文学の世界の新人の登竜門であるべき芥川賞の候補作の低迷だった。
その全てとは言わぬが、その内の多くのものが明らかに時流を意識しての作為を匂わせた、時代に疎い私の足元をさらうような戦慄を期待してかかる私を落胆させ続けたものだった。
芸術家という他人が多く待ち合わせぬ感性を備えた筈のある意味で選ばれた人種が、何の気兼ねなしに己の感性で捉えた世事について描くという、本来自由奔放な作業が現代の技術体系の作る虚構の便宜性にかまけて己の感性のレーダーを回して、人生の主題を捉えようともはせずに、所詮は他力への依存で創作に挑むと言う本質的な怠惰は、芸術という本来孤独で独善的な作業への冒涜でしかあるまい。
つまり技術の発展は、人間の感性の働きを摩滅させ人間の独創を阻害すると言う矛盾を拡大してしまったようだ。つまり、作家が生の人間として独自の世界観を持つことが阻害されているのだ。こうした文明状況は理化学の分野においてはそれに携わる者たちにとって有利に働こうが、感性一筋で立つ芸術家たちにとっては極めて厄介な本質的状況と思われる。
私は最近になって昔、辛辣だった獅子文六さんから聞かされた言葉をしきりに思い出す。ある出版社が主催したゴルフ会でたまたま同じ組でプレイしていた時、氏が突然言ったものだ。
「君ら若い作家は気の毒だなあ、一介の文子風情がこんな一流クラブでゴルフが出来る時代なんぞそう続くものじゃないぞ。その内、小説なんぞ流行らなくなって物書きは食えなくなるぞ」と。
その予言はいかにも的中しだしていて、人々は最早文学に人生の指針を求めることも、また人生のための活力を求めることも希少となった。
また、ある分野の小説は世の中の技術の進展によって淘汰されてしまい見る影もない。かつて一世を風靡した推理小説作家の多くは、スマホやテレビでの刺激的なゲームに押し流されてほとんど淘汰されてしまった。
複雑な現代の社会では誰も情報の摂取なしに生きてはいけず、当然それを求め続けるが、その膨大な量に埋没してその内の何が自分の人生にとって必要な関わりを持つかを判断するのは極めて難しい。無残な交通事故、著名人の不倫、奇妙な犯罪についての詳細な報道、それらは一時の興味をそそり刺激を与えはするが、あくまで一過性のものでしかなく、己の人生に実質何の関わりもありはしまい。
私が最近大きな危惧を抱いた現象は、前天皇の退位によって元号が令和に変わった時の国を挙げてのはしゃぎぶりだった。
天皇の退位と新天皇の即位はその限りでの変化でしかなく、昭和時代のように天皇を現人神として崇めるファナティックな時代でもない今の世に、元号の変化だけであれほど社会全体がはしゃいで騒ぐその外の側では厄介な世界的変化がめまぐるしく進行していて、めでた騒ぎの中で画期的な十日間の連休に浮かれている者たちに水をかぶせられるような出来事は起こりはしなかったが、日本という国家の存続を危うくしかねぬ周囲の状況は変わることなく続いているが、目先の祝いごとに当座浮かれるのはよしとしても、種々情報の版元のメディアが作りだすこの国の薄っぺらな現況の底に埋蔵されている危うい本質的な状況について、我々はもう少し腰を据えて考える必要があるのではなかろうか。
私の学生時代に愛唱した寮歌の文句に『多感の友よ思わずや、多恨の友よ憂えずや、祖国の姿今いかに』という名文句があったが、大した情報も持たず自我だけが突出していた未熟な少年の研ぎ澄まされた感性は、国家や社会を直視できていたに違いない。いたずらな情報が氾濫し、いたずらな技術がそれを助長し、人間の自我が埋没しつつあるこの社会の中で国民が人間としてのそれぞれの感性を取り戻していくために、我々は何を拒否し、何を取り戻すべきかを考えなくてはならぬ時に差し掛かっているのではなかろうか。
いたずらな情報の氾濫に埋没して溺れることで人間は感性を摩滅し個性を喪失しかねない。
悪しき文明による人間の感性の摩滅は、この国の伝統と文明の個性の喪失にも繋がりかねないのだから。
産経新聞社 雑誌「正論」2019年7月号掲載
悪しき「指導者」をどうするか
近頃の韓国政府の日本に対する最近の言動はとち狂っていて常軌を逸しているとしかいいようない。
大統領の頭がおかしいのならせめて国民の多くが頭を冷やし国を損ないかねぬ指導者をみずからの手で淘汰しないと韓国は孤立のまま北朝鮮に併合され共産化されてしまい国民は悲惨な思いをするでしょう。
国の運命をきめるのは一部の政治家ではなしにあくまでも国民の意思に違いない。
韓国の友人たちの覚醒を願ってこの文をしたためました。
悪しき「指導者」をどうするか
最近の韓国の文在寅大統領政権のわが国に対する無礼非道なやりくちに内外に批判の声も高まり、彼の支持率も降下してきていると聞くが、それに関する論評の中でなぜかごく重要な要因が欠落しているような気がする。
≪権威に弱い彼等の国民性≫
それは文が熱願する南北の統一が実現した時、一番立つ瀬がなくなるのは韓国の国軍だということだ。現に軍の高官のOBたちの中に文批判の声が高まりつつあるという報道は注目に値する。戦後、独立後の韓国の政治の経過を見直すと政変にはいつも軍の強い関与があった。
最初の李承晩大統領を倒し、その後を継いだのは近代化に大きな功績を残した軍人の朴正煕大統領だったし、彼は側近の軍人に殺され、軍人の全斗煥大統領が後を継いだ。そして一部左翼が反政府の動きを示したのを、全は軍を出動させて鎮圧したのが光州事件だった。
私はそれを全て良しとはしないが韓国の国民の好む権威主義のメンタリティーからすれば妥当な成り行きと言える。
概して権威に弱い彼等の国民性はいつもそれをさしたる抵抗なしに受け入れてきた。そうした国民性は財閥をも絶対化したし、健全な民主主義の定着を阻害してもきたと思われる。
朝鮮半島に似たフリンジと呼ばれる世界の大きな他の半島、バルカン半島、インドシナ半島などは地政学的にも背後の大国に抑圧支配され続け、分裂国家を強いられるという悲劇的な歴史をたどってきたが、朝鮮もまた清国の滅亡の後、ロシアの南下を恐れ日本との併合を自ら選んだのだ。
そうした歴史の経過の中で培われた民族の精神構造は自主性を欠き権威に弱い卑屈なものになりやすく、優位なものになびく真の自立性を欠いた卑弱なものになりやすい。現代の韓国における財閥の過大な権威もその証左であって国民の卑屈さを表している。
それは彼等の祖先が主体的に選んだ日韓併合を被害として捉える歴史の改竄を自ら行い、日本の道義的責任として非難する卑怯な主張を繰り返しているが、冷静な第三国の識者はその著書で日韓併合を『朝鮮が瞬間的に幸福になった時代』と称して評価しているが。
≪いかに国家国民を守り保つか≫
現にかつて私が親しく会談した折、朴正煕大統領は、貧農の倅だった自分に勉強の機会を与えてくれたのは日本の統治による教育の普遍だったし、自分を軍人に育て正式に士官学校に編入し首席になった自分に答辞まで読ませたのは異例の植民支配とも言えると回顧していたものだ。
日本もまた遠い過去には半島を介して多くの文化を取り入れてきた事を忘れることは出来ない。そうした歴史の推移にかまけて両国の優劣を云々するのは歴史の真実を歪め現実を傷つけ損なう愚かな所作でしかあるまい。
今私たちが心得、腐心して防がなくてはならぬのは、間近な隣の朝鮮半島が北にのみ込まれ共産化されるのをいかに防ぐかという事に他なるまい。
周囲にいてそれを望む者、望まぬ者たちの野心の軋轢の中でいかに国家民族の自主性を守り保つかという、際どい選択の岐路にさしかかっている隣国に我々は率直な提言を惜しむべきではない。
北は最近の近距離ミサイルの発射を見ても現体制の保持のために核兵器の開発を中止することはあり得まいし、独裁者は保身のために親兄弟、親族をも殺すことをためらわない。
≪対岸の火事ではすまぬ≫
そうした前世紀的と言おうか、遠い古代に近い非歴史的人物が近隣に実在しているという事実は、この現代には異形なことだが、それにおもねってまでわが身を売ろうとしている悪しき指導者をどうやって淘汰するかを真剣に考えなくてはなるまい。
北の独裁者は日本やアメリカにとって厄介な存在だが、南の指導者もまた朝鮮半島を巡る平和と安定のために殆ど役にたたぬ存在の体をなしてきたのは、皮肉というかこれまた厄介な現実だ。
彼の存在をアメリカが殆ど多としていないことは過日の文のアメリカ訪問をワシントンは鼻であしらったと言う現況を文は自覚すべきだろう。
いずれにせよ、朝鮮半島の混乱は対岸の火事ではすまぬ事実で、その現況の火元の文大統領をいかに淘汰するかは、韓国民が己の明日を考えての選択にかかっているのだが。
文大統領が民族の統一を願うのはよく分かるが同じ民族の中に血族の兄を殺し叔父を殺し権力の保持を計る冷酷な指導者と敢(あ)えてでも合体を計り願うと言うのは越権を超えて同胞への背信裏切り以外の何ものでもありはしまい。
世界の安定と平和のために我々が何よりも排除しなくてはならぬのは、北朝鮮の核兵器の前にそれを容認し憧れる盲目に近い南の指導者なのかも知れないが、それを決めるのはあくまで韓国民自身だろう。(いしはら しんたろう)
『2019年6月5日 産経新聞「正論」掲載』
◆日本よ◆ 地球はどうなる
本来梅雨のないはずの北海道にまで豪雨が降り、西日本の各地は連続豪雨のもたらした災害で瀕死のありさまだ。日本中で体温を越す猛暑が続き多くの人が死ぬ有様は画期的な惨状これはとてもただの異常気象として片付けられぬ現象だ。日本だけではなしに世界の各地で見られる事態で地球全体が狂ってきているとしか言いようがない。
今年に入ってからの気象の異変を眺めると私は四十年前に東京で聞いた、ブラックホールの発見者の天才宇宙学者ホーキングの講演を思い出さずにいられない。
彼はあの時この宇宙には地球並みの文明をそなえた生命体の存在する星は二百万ほどあるがその大方はすでに姿を消してしまった。それは今の地球並みの文明が進むと自然の循環が狂ってきて生命体の存在は長続きせず、そうした星は宇宙時間にくらべればほとんど瞬間的に自滅してしまうと言ったものだった。そこで私が宇宙時間に比べれば瞬間的とは地球時間で言えば何年くらいですかと質問したら、彼は言下に『およそ百年』と言い切ったものだった。
彼は天才ではあっても神様でありはしないが、しかし同じ人間ながら天才を備えた者の予測と予言を私としては今地球にまぎれもなく起こっている現象を目の辺りにして強く思い起こさぬ訳にいきはしない。
東欧の詩人ゲオルグは「たとえ地球が明日滅びるとも、君は今日林檎の木を植える」とは歌ったが果たしてそんな気分でことが済むものだろうか。
私はこの夏いきつけの伊豆七島にダイビングに行き水温の高さに驚かされたが、海水の温暖化による海の膨張と気化した海水は空にたまり豪雨となって降り注ぎ世界中で水害を引き起こし、膨れ上がった海は地球の自転の遠心力によって赤道に近い島々を侵食し、ツバルやフィジーのような島国は水没の危機にさらされている。私が訪れた砂州国家のツバルの人々は為す術もなしにマリファナを吸って恐怖をしのいでいた。それを目にして私は何十年か前に取材に出かけて目にしたベトナム戦争の最中恐怖と空しさを紛らわす為にマリファナを吸いまくっていたアメリカ兵達を思いだしていた。
脳天気なアメリカ大統領のトランプは世界の言う温暖化はデマだとほざき、温暖化防止のパリ協定を無視してかかる。豪奢なトランプタワーに居座り、国の商売と金儲けしか考えられぬ男に世界が見える訳もあるまいが。このまま進んでアメリカが地球の破綻を防ぐ為に何もせず腕をこまねいて過ごしたなら、彼は人類の破滅を手も貸さずに見送った重罪犯人として歴史に登録されるだろう。
北極海の氷は温暖化によって激減し白熊は生きるところを失い、氷の消滅によってやがて大西洋は遥か北の海域で水路を開かれ太平洋に繋がると言う。
さればあの遥か北の海の底に眠る資源の開発に意欲を燃やす関係国達はこの今から既に腕をこまねいて新しい競争に立ち上がろうとしているが、そこで満たされる物欲が人間達に一体どれほどの何をもたらすと言うのだろうか。
私はこの今になって初めて勤めた環境担当の大臣として、嫌がる官僚達の反対を押し切って訪れた九州の水俣で目にした水俣病の患者達の惨状を思い出している。
経済の発展に託した人間達の物欲が文明発展と言う輝かしい看板の元でいかなる犠牲を我々自身に強いてきたことだろうか。
西日本を恐怖にさらした異常気象のもたらした惨事を契機に、私達は自分自身よりも更に愛おしい子孫達の為にもっと大きな視野で空を眺め、海を眺めなおす必要があるのではなかろうか。この地球を守り抜くために。