コラム

日本の伝統と個性を守るため 文化遅滞からの脱却を

 最近の若い一般の人達と話していると気付かされることがあります。

何か特別の技術系の仕事についている者なら少しは違うのだろうがどうも会話が平板で、年上の人間として逆に啓発されるということが滅多にありません。総じて会話の印象が平板で年代の差を感じさせられショックを受けるようなことが少ない。これは残念な兆候で社会全体の硬直衰退を暗示させられます。

 これは様々な技術の進歩がもたらした便宜性のために自分で努力して必要な知識や心を動かす感動を求める心の作業がおざなりになってしまい、簡単に手に入るあてがいぶちの情報に安住してしまい、脳生理学的には安易な作業に感性が埋没してしまい人間の非個性化が進んでいるという現象に他ならないと思われます。

 ということで文化そのものの衰退に繋がりかねぬ現況に不安を感じこのような論文を書きました。

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 最近の世の中のさまざまな現象を眺めると、かつて社会心理学者のオグバーンが創出した社会変化の新しいパターンの「カルチュラルラグ」、文化遅滞の大幅で顕著な到来を感じないわけにいかない。

 文化遅滞の内的な構造とは人間の創意が創り出す諸々の技術の高速広範な進歩に、人間自身の情操が攪拌され社会の現況に沿った健全な精神なり情操の育成が阻害されてしまい、人間の健全な精神や情操が育む所産としての理念なり、それを母体としての正統な芸術なり理念の誕生が阻害されてしまう、目には見えにくい荒廃の現象がもたらされる。それは株の暴落とか自然現象としての災害といった可視的な災難とは異質な、しかし実はもっと根深く深刻な歪みであって、人間の生存を本質的に蝕み人々の人生そのものを歪めて規制しかねぬという深刻な状況に他ならない。

 人間の歴をたどれば過去には人間の存在そのものを大きく規制する技術の開発や発見があった。

長く続いた暗黒の時代の中世は、火薬と印刷術の開発と大洋を渡る航海技術によって終焉し人間としての人間性を認める近世が開け、近代から現代に及んでいる。

 その後、人間は神の火ともいえる原子力を手中にし、地球とは別の天体の月にまで歩を運んだものだった。そして、その限りでは人間はそれらの新技術という現実にある者は怯えて、吉本隆明氏が画期的な技術を拒否することで人間はまた猿に戻ろうと言うのかと批判をしもしたが、それでもなんとか対応してきはしたものだが、さらに時代が進んだこの今、文明社会に住む人間にとっての第三の植物とも言える情報に関しての画期的な技術の進歩がもたらされると、かつて無いこの情報に関する簡易飽食の時代に実は人間を芯から蝕むカルチュラルラグなる知的な疫病が蔓延しだしているのだ。

 

それはスマートフォンやポータブルなパソコンによって容易に得られる情報は、蔓延しているツイッターなる情報の字数の少なさが象徴するように情報としては極めて矮小な、非本質的なものでしかありはしない。普通ならば数ページのボリュームで伝えられるべきメッセージが僅か数行の言葉で伝わりきれるものでありはしまい。

その発信者が本気で伝えたい情報は本来かなり複雑かつ高度なものに違いない。

 ツイッターとして凝縮されたものは、いわばテレビの興味深い番組の合間に流されるコマーシャルのごときものでしかなく、発信者の真意でありようもない。ただし、それがある巨大な権力者の場合ならば喧嘩の時に取り出して脅す刃物のようなものになり得るだろう。

トランプ米大統領のツイッターを駆使しての脅しは野球でのピッチャーの投げ込むバッターへのすれすれビーンボールみたいなものでしかありはしなく、問題の解決のたかだか糸口にしかなり得ない。

 この現代における情報の非本質をツイッターなるある意味で便利で浅はかな情報形態は証していると思われる。

 ともかく、この現代に人々は本気でものを読まなくなった。私の親しい早稲田大学の文学学術院の森元孝教授によれば、最近の学生が一年間に買い求める本の数は平均僅か一冊だそうな。大人とて同じようなもので、最近、私自身驚くべき体験を味わわされた。私がものした、田中角栄を一人称で描いた『天才』はお陰で百万部を売るベストセラーになったが、ある時、ある人から「貴方の評判の本をやっと読むことができました」と告げられて質したら、図書館で借り出して読もうと思ったら評判なので、ようやく十七番目に借りられたという。こちらも鼻白んで「評判な本なら自分で買って読んだらどうだ」と言いたかったが堪えておいた。

 私の親友、幻冬舎の社長、見城徹に言わせると、当節、本当に本の売れ行きは低下して出版界は大ピンチだそうな。景気の動向はそう低迷している訳でもないのに、人は昔に比べてほとんど単行本を買わなくなったそうな。

 その訳は多々あって、図書館の普及に加えて、大方の本、特に小説なんぞはスマホでやりくりすれば重い本を抱えてよりも、手の内にかざして操作すれば簡単に読めるという。しかし、それは所と時を選び、一人でする読書とは質的に異なる作業に他なるまいに。

 読書というのは、テレビの番組の合間に目にする寸劇に似たコマーシャルや電車の中の吊り広告を眺めて得る情報の摂取とは全く異質な試みだろうに。

 読書の本質とは己が身を置く世界とは異なる世界、異なる人生との遭遇であって、そこで得る感動は自分の生き方を変えてくれさえもしようし、同じ一冊の本にしてもページを行きつ戻りつもして著者のメッセージは十分に咀嚼され、読む者の精神なり、情操に組みこまれていくものだろう。

 私が青春の頃読んだ、今はもう流行らなくなってしまったジイドの情熱の教書『地の糧』の『ナタナエルよ、君に情熱を教えよう。善悪を判断して行動してはならぬ』の一節は私の人生の軌道を決めてしまったものだったが。

 そうした人生の中での啓示はスマホを操りながらする読書で得られるものだろうか。人間の情操や情念はそう簡単に安上がりで培われるものでありはしまい。

 何度読み直しても、その度、また同じように心に触れてくる本のフレーズは読む者だけが心得て、胸というより体に納めて抱える人生の宝だろうが、そうした人生での無形の貴い出会いがスマホで読む読書なるものでもたらされるものだろうか。読書によってもたらされる心の糧とはそう安いものでありはしまい。この私も折に触れ何度も読み直す本、それもその本は私にとって触りの部分がある。そして、何度読んでも同じ感動と言おうか、心が拭われる一種の清涼感を得られる。

 例えば戦後の日本文学の中で私にとって最も優れた恋愛小説と思われる福永武彦の『草の花』のラストシーン、かつて旧制高校時代に愛した友人、そして彼の死後に愛したその妹との愛は結局報いられずに、召集を受け狐り人寂しく出征して行く男が汽車の窓辺に顔を押し付け、窓の外に流れる無数の町の灯の中に彼女の住む家の灯を見つけたと信じて、それを懸命に見つめる、愛ゆえの絶対な錯覚の美しさは時代を超えた今でも読み直す度においてのみ可能な恍惚感であって、現代の技術が与える便宜さにかまけた「物」を読むという作業が到底もたらしてはくれぬものに違いない。

 真の読書とは美味しい食べ物を何度もかみしめながらあじわう快感と同じで、当座の暇を紛らわす作業ではあり得まい。興味のある種の情報を眺めて後は捨て去る週刊誌の浅薄さは、真の読書によって繋がり得る人生への何らかの啓示をもたらすことなどゆめあり得はしまい。

 そして他人という読者に読まれるべき物を書く側の人間も、自分の人生の生き方からの滴りの吐露としてではなしに、ある者は現代の便利な技術体系がもたらす恩恵として世間の動向を容易に察知し、それにかまけての創作に没頭する。言い換えれば、溢れる情報を選択してのマーケティングに則った作業であって日本独自の私小説とは皮肉に対照的な産物でしかない。

 その証左がかつて私も選考委員を務めた文学の世界の新人の登竜門であるべき芥川賞の候補作の低迷だった。

 その全てとは言わぬが、その内の多くのものが明らかに時流を意識しての作為を匂わせた、時代に疎い私の足元をさらうような戦慄を期待してかかる私を落胆させ続けたものだった。

 芸術家という他人が多く待ち合わせぬ感性を備えた筈のある意味で選ばれた人種が、何の気兼ねなしに己の感性で捉えた世事について描くという、本来自由奔放な作業が現代の技術体系の作る虚構の便宜性にかまけて己の感性のレーダーを回して、人生の主題を捉えようともはせずに、所詮は他力への依存で創作に挑むと言う本質的な怠惰は、芸術という本来孤独で独善的な作業への冒涜でしかあるまい。

 つまり技術の発展は、人間の感性の働きを摩滅させ人間の独創を阻害すると言う矛盾を拡大してしまったようだ。つまり、作家が生の人間として独自の世界観を持つことが阻害されているのだ。こうした文明状況は理化学の分野においてはそれに携わる者たちにとって有利に働こうが、感性一筋で立つ芸術家たちにとっては極めて厄介な本質的状況と思われる。

 私は最近になって昔、辛辣だった獅子文六さんから聞かされた言葉をしきりに思い出す。ある出版社が主催したゴルフ会でたまたま同じ組でプレイしていた時、氏が突然言ったものだ。

「君ら若い作家は気の毒だなあ、一介の文子風情がこんな一流クラブでゴルフが出来る時代なんぞそう続くものじゃないぞ。その内、小説なんぞ流行らなくなって物書きは食えなくなるぞ」と。

 その予言はいかにも的中しだしていて、人々は最早文学に人生の指針を求めることも、また人生のための活力を求めることも希少となった。

 また、ある分野の小説は世の中の技術の進展によって淘汰されてしまい見る影もない。かつて一世を風靡した推理小説作家の多くは、スマホやテレビでの刺激的なゲームに押し流されてほとんど淘汰されてしまった。

 複雑な現代の社会では誰も情報の摂取なしに生きてはいけず、当然それを求め続けるが、その膨大な量に埋没してその内の何が自分の人生にとって必要な関わりを持つかを判断するのは極めて難しい。無残な交通事故、著名人の不倫、奇妙な犯罪についての詳細な報道、それらは一時の興味をそそり刺激を与えはするが、あくまで一過性のものでしかなく、己の人生に実質何の関わりもありはしまい。

 私が最近大きな危惧を抱いた現象は、前天皇の退位によって元号が令和に変わった時の国を挙げてのはしゃぎぶりだった。

 天皇の退位と新天皇の即位はその限りでの変化でしかなく、昭和時代のように天皇を現人神として崇めるファナティックな時代でもない今の世に、元号の変化だけであれほど社会全体がはしゃいで騒ぐその外の側では厄介な世界的変化がめまぐるしく進行していて、めでた騒ぎの中で画期的な十日間の連休に浮かれている者たちに水をかぶせられるような出来事は起こりはしなかったが、日本という国家の存続を危うくしかねぬ周囲の状況は変わることなく続いているが、目先の祝いごとに当座浮かれるのはよしとしても、種々情報の版元のメディアが作りだすこの国の薄っぺらな現況の底に埋蔵されている危うい本質的な状況について、我々はもう少し腰を据えて考える必要があるのではなかろうか。

 私の学生時代に愛唱した寮歌の文句に『多感の友よ思わずや、多恨の友よ憂えずや、祖国の姿今いかに』という名文句があったが、大した情報も持たず自我だけが突出していた未熟な少年の研ぎ澄まされた感性は、国家や社会を直視できていたに違いない。いたずらな情報が氾濫し、いたずらな技術がそれを助長し、人間の自我が埋没しつつあるこの社会の中で国民が人間としてのそれぞれの感性を取り戻していくために、我々は何を拒否し、何を取り戻すべきかを考えなくてはならぬ時に差し掛かっているのではなかろうか。

 いたずらな情報の氾濫に埋没して溺れることで人間は感性を摩滅し個性を喪失しかねない。

  悪しき文明による人間の感性の摩滅は、この国の伝統と文明の個性の喪失にも繋がりかねないのだから。

 

 産経新聞社 雑誌「正論」2019年7月号掲載 

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