人間について
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はみだす人間、はみだす出来事があるからこそ逆に、大方の人間が安心してこもっていられる社会の枠が保たれているのじゃありませんか
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そんな上っ面のことじゃなしその下その底の底の、なんというのか、人間の世の中の仕組みに関わることなんです。それがはみ出しであり、大方の人間の人生には馴染まぬことであり、ひどい罰を食うことだろうと、世の中には誰かが他の誰かのためにやらなくてはならぬことがあるでしょう。
またそれがなけりゃ、世の中平べったいようで実は不公平だし、誰も救われませんよ。
はみだす人間、はみだす出来事があるからこそ逆に、大方の人間が安心してこもっていられる社会の枠が保たれているのじゃありませんか。
天命などという大それた出来事だって、結局は誰か一人二人の人間がやることでまず水口が開くんじゃないですか。
『遭難者』(新潮社)
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どれほどの人間が生命的、とまではいわぬにしてもその個性にのっとって生き生き暮らしているものなのか
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人間の存在について、特に自らのそれについて、誰がどのように考えているかは知らぬが、今日我々に与えられている存在の形とはあくまで社会的なものとしてであって、どれほどの人間が生命的、とまではいわぬにしてもその個性にのっとって生き生き暮らしているものなのか。
それでいながら一方ではかつてのいつの時代よりも生を飽食しているともいえそうだ。それそのものが人間としての遭難といってもいいくらいに。
『風についての記憶』(幻冬舎)
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人間が生きるということは他人とかかずり合うことの煩わしさでしかなく、さらに言い換えれば自我の磨耗でしかない
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私は人間の耐性、つまりこらえ性、また言い換えれば我慢の力というものは、人間が人間としてこの人間の社会に生きていくための絶対不可欠の要件だと思う。
私たちはこの世で生きていく限り、さまざまな不本意に遭遇しながら、結局は我慢をしなければならない。もちろん人生には数多くの満足もあるが、しかしその数倍の我慢が必要とされるはずだ。
つまり、人間が生きるということは他人とかかずり合うことの煩わしさでしかなく、さらに言い換えれば自我の磨耗でしかない。カミュは「幸福とは、それ自体が長い忍耐である」と言っている。
つまり、物事に耐えるということでしか幸せは獲得されはしないのだと。
『拝啓 息子たちへ』(光文社)