石原慎太郎の理念・思想

人生論

家族について

屈辱に耐えるということは、人間の強さを助長するのです。負けても、このままでは引き下がらないという意志を持てればいいのです

屈辱に耐えるということは、人間の強さを助長するのです。負けても、このままでは引き下がらないという意志を持てればいいのです。私は自分の子供にも常々そう言ってきました。

子供の場合なら、百メートル競争でどうしても自分より強い奴がいてかなわなければ、こっちは千メートル走で、あるいは野球なら負けないという思いを実行に移して屈辱をバネに屈辱に勝つ方法もあるはずだ。

俺は、私は、これなら負けないという技なり術を自分自身で探させることです。

『拝啓 息子たちへ』(光文社)

何だけは絶対に守るのか、何だけはとにかくはぐくみ育てていくのかという指針を持たぬのは男ではないし、それこそを男の親が語らなくてはならない

他の動物だったら外敵に襲われた時に家庭のなかで真っ先に父親が刃向かい、母親が子供を抱えて逃げるというのが動物としての天性の姿だと思う。そういうものを同じ動物たる人間の習性として維持していこうとするのは健全な保守ともいえるはずです。

何だけは絶対に守るのか、何だけはとにかくはぐくみ育てていくのかという指針を持たぬのは男ではないし、それこそを男の親が語らなくてはならない。

そういう作業を欠いてしまったところに父性なぞ存在し得ないし、成り立ちもしません。

『「父」なくして 国立たず』(光文社)

ともかく女の性が今日ほど商品化され、女性が自分を対価計算して、女の側の打算で結婚を考えるようになった時代は今までないような気がする

最近、日本の最高裁が画期的な判例をしめした。それは、不倫に関して責任のある配偶者からの離婚を認めたことだ。この場合には男の有責配偶者に関してだったが、じつはいろいろ世間で聞いてみると最近では、不倫に関しての有責配偶者は女の方が多いようだ。

女上位の時代というが、男女の結びつきに関してその選択のイニシアティブを取っているのは、今日ではどうやら女性の方であるらしい。まともな男なら、この実態を眺めて下手をすれば女性嫌悪にもなりかねない。

ともかく女の性が今日ほど商品化され、女性が自分を対価計算して、女の側の打算で結婚を考えるようになった時代は今までないような気がする。

女の子どもを持たず息子しかいない私のような父親からすれば、親としての私にとってもそら恐ろしい時代が到来したような気がしてならない 。

『拝啓 息子たちへ』(光文社)

私は自分にとっての分身が初めて誕生した時、つまり私の長男が生まれた時のことを今でもよく覚えている

私は自分にとっての分身が初めて誕生した時、つまり私の長男が生まれた時のことを今でもよく覚えている。

覚えている、というよりあの時の、得もいえぬある強い実感について今でも感じ直すことが出来る。それはいい換えれば、人間の「存在」について初めて考えさせられた、というより強く感じさせられた時の印象といえるかもしれない。

自分がこうしてこの世に在るということは、自分がただこうして生きているというだけではなしに、今ここにこうして見る我が子と、さらにその先この子の子供、さらにその孫にまで、丁度大きな鎖の輪のように繋がった者として自分も在るのだ、そしてこの子もまた、すでに死んだ私の父や、私自身一、二度しか会ったことのない、しかしとても優しく懐かしく印象的だった父方の祖母や、そのもっと前の前の名も知らぬ、しかし確かにこの世にいた、私のためにもこの世に在ってくれた先祖の人々とも繋がっているのだという、どんな感傷も伴わぬただ一途に強い感慨だった。

『亡国の徒に問う』(文藝春秋)

自分を生んで育てた父母との関わり、あるいは兄弟姉妹、そしてまた自分が結婚してつくる家庭、子供、孫という連鎖の輪がどこまでも伸びていくという家族関係の存在や意義を否定することは、どんな理屈をもってしても不可能です

人間は誰しも他人との関わりのなかで生きています。
いかなる立場、いかなる職掌、あるいはいかなる個性を持った人間であろうと、この社会のなかで人間として生きていく限り、何らかの連帯、つまり他人との関わりのうちにあるのです。

この連帯という人間の関わりから、私たちは誰も外れることは出来はしない。

その連帯の最小単位は、家族です。

自分を生んで育てた父母との関わり、あるいは兄弟姉妹、そしてまた自分が結婚してつくる家庭、子供、孫という連鎖の輪がどこまでも伸びていくという家族関係の存在や意義を否定することは、どんな理屈をもってしても不可能です。

子供はやがて長じて仕事を持つ、自活する。

それは最小限の単位の家族に加えて、仕事を通じてまわりの人間との連帯、つまり社会との関わりを持つということであり、それの重層集積が社会全体のエネルギーとなって国家社会が動いていくのだし、発展もするのです。

『「父」なくして 国立たず』(光文社)

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