石原慎太郎の理念・思想

人生論

死について

死は最後の未知、最後の将来であるが故に人間はそれを恐れるしそれを考え知りたいと願う。

死は最後の未知、最後の将来であるが故に人間はそれを恐れるしそれを考え知りたいと願う。もし死についての何らかの定義、ある確信を持つことが出来ていたなら人間は迷うことも恐れることも無いに違いない。だから老いを感じるようになったら、目をそらさずに自分の人生の最終点にまぎれもなく在るものについて、それはいったい何なのだろうかと考えてみるといい。そうすることで人間は本物の哲学者にもなることが出来るのです。

『老いてこそ人生』(幻冬舎)

しかし死を意識するということの、「恐れ」以外の効用があるということに案外多くの人たちが気づいていない。

しかし死を意識するということの、「恐れ」以外の効用があるということに案外多くの人たちが気づいていない。

それは死というものを恐れの対象として意識しだしたことで、人間の感覚、官能は鋭敏になってきてすべての味覚が鋭いものになってくる。性愛の味わいも食べ物の味覚もすべてが今まで以上に甘美なものになってきます。

それはいい換えれば、残された、つまり限りある人生の味わいの深さが増すということでしょう。それは決して回避せずにまともに受け止めたらいい人生の公理の一つだと思います。

『老いてこそ人生』(幻冬舎)

なんだ自分はもう死ぬのかという感慨は、いかに高齢であろうと当人の意識がしっかりしている限り、人間は誰しも夭折するというものかも知れない。

なんだ自分はもう死ぬのかという感慨は、いかに高齢であろうと当人の意識がしっかりしている限り、人間は誰しも夭折するというものかも知れない。つまりその意識においては早く死にすぎるということです。それはいい換えれば死に関する不本意さということで、さらにいい換えれば人間は意識がある限り誰しも即興的に不準備な状態で死と向かい合うということです。

「死」に関して緻密で見事な分析をしたソルボンヌ大学の哲学教授ジャンケレビッチにいわせれば、死は古くて新しい、準備されつくしていた不意打ち、ということです。

『老いてこそ人生』(幻冬舎)

たとえ百歳を越えている者でも人間は惚けていなければ、まともな意識を持ったまま死ぬ時には、間近な死を意識した瞬間、多分、「なんだ昨日生まれたと思っていたらもう死ぬのか」、と思うに違いない。

たとえ百歳を越えている者でも人間は惚けていなければ、まともな意識を持ったまま死ぬ時には、間近な死を意識した瞬間、多分、「なんだ昨日生まれたと思っていたらもう死ぬのか」、と思うに違いない。いかに変化起伏に満ち満ちた人生を過ごしてこようとも、いや人生というものははたの目にはたとえいかに平凡なものに見えようと実は当人にとっては起伏に満ちたものであり、波乱に富んだものなのだ。

『老いてこそ人生』(幻冬舎)

人間にとって最後の「未知」である死について誰もよく知ってはいるが、しかしそれが未知であるが故にも、この自分が死ぬということを信じている人間など実は一人もいはしない。

人間にとって最後の「未知」である死について誰もよく知ってはいるが、しかしそれが未知であるが故にも、この自分が死ぬということを信じている人間など実は一人もいはしない。

しかし、信じてはいないが知ってはいる、覚悟もしている。ということで人生は成り立っているのであって、その認識、その覚悟が無ければ人生の中でそれぞれが味わう「愛」も「恋」もありはしません。

死を前提にして、それらのものが必ず空ろう、色褪せる、いつかは終わる、が故に愛は貴重だし恋も素晴らしい。だからこそ誰しもが不滅の愛を信じて誓ったり、恋のかけがえにすべてを賭けてもいいとさえ願う。

『老いてこそ人生』(幻冬舎)

↑ページの先頭に戻る