石原慎太郎の理念・思想

人生論

老いについて

しかし肉体への強い意識を抱きながら、肉体の老いとの戦いに必ず敗れていく人間に与えられるものは、気力をも含めて真の成熟など有形無形計り知れぬほど多くのものがあるはずです。

ヘミングウェイは「勝者には何もやるな」といいました。それでいい。しかし肉体への強い意識を抱きながら、肉体の老いとの戦いに必ず敗れていく人間に与えられるものは、気力をも含めて真の成熟など有形無形計り知れぬほど多くのものがあるはずです。

『老いてこそ人生』(幻冬舎)

若い頃私たちはよく、健康な肉体にこそ健全な精神が宿るといわれたものです。それは真理だと思う。

若い頃私たちはよく、健康な肉体にこそ健全な精神が宿るといわれたものです。それは真理だと思う。だから、それが真理であるが故にもその逆説もあり得るのです。つまり、ある年齢にまでなると今までとは逆に、健全な精神が老いていく肉体を守ってくれるのです。これは人生の充実のためにも極めて都合のいい、有り難い原理だと思う。なぜならその原理に沿う限り、人間は老いても衰弱することなしにすむのですから。

『老いてこそ人生』(幻冬舎)

誰しも年はとりたくはない。誰しも老いたくはない。しかし誰しも必ず年をとり老いていくのだ。

誰しも年はとりたくはない。誰しも老いたくはない。しかし誰しも必ず年をとり老いていくのだ。そんな当たり前のことがらを前にしてなんでくよくよしたり、怯えてたり、腰が引けたりすることがあるのだろうか。正面きって向かい合いこちらから仕掛けていけば、こんなにやり甲斐生き甲斐のある人生の時の時は他にあるものではないのです。

そのためには必ず老いていく肉体の原理と、その兼ね合わせで、かつて若い肉体が作った精神の関わりについて知ることです。それを踏まえて老いに関するさまざまな情報を心得ながら、若い頃にはなかった経験と、それが培ってきた冷静さをもって老いを迎え討つことです。

『老いてこそ人生』(幻冬舎)

この日本で顕著なことは六十五歳以上の年配者こそが、可処分所得と可処分時間が一番多い、つまり時間も金も豊富に使える、贅沢が可能な、生き甲斐の多い世代ということです。

『太陽の季節』なる小説でこの世に出た私も今年の九月の誕生日には七十歳となります。太陽のたどる軌跡からいえばもはや斜陽の季節だろうが、何にしろあっという間にここまできてしまったという感があるが、それは誰しものことです。

しかし現代文明のもろもろの効用もあって、日本人と平均寿命が長くなったというだけではなしに、それだけの長寿に加えて健康な老年が普通のことになりました。六十五歳以上の年代を老年と呼ぶそうだが、七十歳などは昔は古希、古来稀なる高齢ということだったが今ではたいして珍しいことでもありはしない。この日本で顕著なことは六十五歳以上の年配者こそが、可処分所得と可処分時間が一番多い、つまり時間も金も豊富に使える、贅沢が可能な、生き甲斐の多い世代ということです。

という、平均的にいって恵まれた条件を踏まえて、まさしく老いてはきたが、これからの生涯を、第二の人生などといわずに、人生そのものの仕上げの一番成熟充実した季節と心得て、そのために何と何をすべきかを考えたらいい。そのための時間も財政的な余裕もあるのですから。

思ってみるとこれからの十年余の歳月ほど奥の深い幅のある、興味尽きぬものはないのかも知れない。どんなドラマでも最後の幕が一番実があり感動的なものなのですから。それを、俺は、私は、もう年だといってあきらめ投げ出すとしたら、それは人生に対してあいすまぬ怠慢としかいいようない。

『老いてこそ人生』(幻冬舎)

世にいろいろ味わい深いものもありますが、自分自身の老いていく人生ほど実は味わい深く、前後左右を眺めれば眺めるほど面白く、味わい深いものはないのです。

老いを迎え討ち、人生の成熟の時代をさらに成熟させて、人生という劇場の決して短くはない最後の幕をたっぷり味わっていくためには、人生の経験を重ねてきた人間としての意識を構えて、老いをしっかりみつめて味わうことだと思います。

『老いてこそ人生』(幻冬舎) 

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