愛国心の公理
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死の予感に晒され苛まれることのない男とは、つまり、自らの愛するもののために、場合によっては生命を賭した闘うべき義務責任を負わぬ男でしかない
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死に繋がる貧困、飢え、戦争の危険の欠落は、せいぜい年にかかわらず万人に一人かかるかも知れぬ癌か、自業自得の交通事故の可能性以外、日常、我々、特に若い男に、死を予感させるものを与えない。
死の予感に晒され苛まれることのない男とは、つまり、自らの愛するもののために、場合によっては生命を賭した闘うべき義務責任を負わぬ男でしかない。だから日本の男は男でないとはいわぬが、男が男としてあるための必要絶対的な属性、男から眺めても女から眺めても、男が男として映るための一つの要件はこの日本では欠落したままに過ぎて来た、とだけはいえる。
『バカでスウェルな男たち』(光文社)
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国家というだけで、ナショナリスト、と身構えるような国は日本の他には絶対にない
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国家というだけで、ナショナリスト、と身構えるような国は日本の他には絶対にない。現実の世界は国家単位で構成されているという当たり前のことを、何かとナショナルなものを嫌い、避けて逃げる日本人は、憶えておくべきだ。
今の中国の江沢民政権は反日のムードを煽りすぎているようで、中国人だけは例外かもしれないが、それ以外の国の人はナショナルな気概のある日本人こそ忌憚なく話し合える相手として歓迎してくれる。アメリカに行ってもしかりだ。これも当然のことだろう。自分の依拠している場所を誇りにできないとしたら、それこそ何かのトラウマを持っていることの証左だ。
『国家意志のある「円」』(光文社)
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本来歴史教育というのは、その国の風土を慈しみ、先人たちの功罪を学びながら、功の部分を今後にどう活かすかを考えさせるものです
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本来歴史教育というのは、その国の風土を慈しみ、先人たちの功罪を学びながら、功の部分を今後にどう活かすかを考えさせるものです。
その基本にあるのはその国と先祖同胞の逸材をこよなく愛するという姿勢です。しかしナショナルなもの、国家的なるものへの愛着、敬意を欠いた歴史教育などは何の意味も価値もありはしない。
『「父」なくして 国立たず』(光文社)