石原慎太郎の理念・思想

国家論

戦後民主主義の迷走

我々だけがいたいけなほど一途に信じているもの、それも絶対の権威に近く錯覚しているさまざまなものについて見直してみる必要がある

我々だけがいたいけなほど一途に信じているもの、それも絶対の権威に近く錯覚しているさまざまなものについて見直してみる必要がある。曰くに、平和憲法、戦後民主主義、それにのっとった国内行政でのさまざまな悪しき平等主義、あるいは国連なるものの信憑性、日米関係、日中友好、自由貿易体制の実態などなど。気づいてみると我々はそれらのものへの一方的な思いこみにがんじがらめになったまま、この国の冷静な運営についてはなはだ自らを損なっている節が多々ある。

『亡国の徒に問う』(文藝春秋)

政治家がいたずらな保身のために怠惰に過ぎているなら、国民自身にそれこそ国家社会の保身のためにわがこととして考えてもらいたい

政治家がいたずらな保身のために怠惰に過ぎているなら、国民自身にそれこそ国家社会の保身のためにわがこととして考えてもらいたい。福沢諭吉は著書の中で、「立国は公にあらず、私なり。独立の気力なき者は国を思うこと深切ならず。愚民の上に苛き政府あり」といっているではないか。

国民も自らの不満不安の所以がどこにあるのかを、今少し具体的に思い考えてほしいと思う。そうした国民個々の思考が堆積していくことで、民意なるものはより確かな形を持ち、それが国家としての意思をも形成していくに違いない。くり返していうが、それはもともと決して政治家だけの責任ではなく福沢が説いたように、あくまで私としての国民の責任であり権利でもあるはずだ。ドゴールもいっている。「政治を主導するのは官僚ではなく政治家だ。そしてそれを最終的に決めるのは国民自身である」と。  

『亡国の徒に問う』(文藝春秋)

我々は戦後一方的に与えられたものを今ようやくその原点から見直し、今後は我々自身の手で作り直すべき時に来たといえるのかもしれない

チャーチルは、「民主主義とは最低の政治だが、しかし結局これしかない」、といったが、我々は戦後一方的に与えられたものを今ようやくその原点から見直し、今後は我々自身の手で作り直すべき時に来たといえるのかもしれない。

既成の政治が国家の意思を造形できずにいるなら、国民こそが政治を構成する素の粒子として、あくまで自らのためにこの国と、そこに住む自分自身の命運について一人一人考え直すべきに違いない。

『亡国の徒に問う』(文藝春秋)

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