石原慎太郎の理念・思想

国家論

マッカーサー憲法の悪しき所産

個人主義の過剰な氾濫の背景には人権という強い衝動があるのです

個人主義の過剰な氾濫の背景には人権という強い衝動があるのです。しかし今の憲法には人権にもとづいた権利の主張が均衡を欠いた形であって、それゆえの責任とか義務の遂行が強く謳われていないために、権利ばかり主張して義務を軽視するという危険で愚かしい現象が起こってきた。ごくごく貧しい家庭も当然あるのだろうが小型自動車で国家の補助を受け取りにくる母子家庭の母親が、指に小さなダイヤの指輪をしてるような現象が実際にあります。

『「父」なくして 国立たず』(光文社)

憲法改正までに十年をかけるという意見が膾炙しているが、しかしそんな呑気なことでいいのだろうか

憲法改正までに十年をかけるという意見が膾炙しているが、しかしそんな呑気なことでいいのだろうか。いいと判断したことは即やるべきなのだ。とにかくこの頃の日本は国全体としてのうごきがいかにも鈍くて遅い。

こういう延々とした論議なるものは、論者は論議の種、はっきり言うとメシのタネがきれないからいいようなものの、それでは起こるかもしれない様々のクライシスには従前通りの、たとえば阪神淡路大震災のときのような、あるいはテポドン発射とその後のような、中国艦日本一周のときのような、同じ対応さえしておけばいいということになりかねない。

私は憲法改正よりもこのごろはむしろ憲法廃棄論を言っているが、廃棄というと字面は荒っぽいが、手続き上は国会の過半数をとればできるのですから、改正よりもむしろ実現性は高い。

創造のために憲法を一度すべて否定して一からつくり直す。その際に国家元首は天皇であると明記し、そして総理大臣は公選で決める。三島由紀夫氏は首相公選制に反対でした。

「首相公選制では共和制になって、結局、天皇は形骸化してしまう」と言っていましたが、しかし元首であると明記することで、権力を持たない権威としての天皇のあり方を民衆にも政治家にも示すことができる。

『「アメリカ信仰」を捨てよ』(光文社)

その内になんとかなるだろう、誰かがなんとかしてくれるだろうという期待は、期待などではなしにたわけた責任放棄としか言いようがない

今日の日本の低迷と自信喪失の根底にあるものは、敗戦後かつての為政者アメリカによって見事と言っていいほど巧みに徹底して仕組まれ遂行されてきた日本人の下意識からの解体と、その結果培われた白痴的とも言える安易な他力本願意識による自立性を欠いた姿勢です。その内になんとかなるだろう、誰かがなんとかしてくれるだろうという期待は、期待などではなしにたわけた責任放棄としか言いようがない。

異民族の手に依って一方的に成し与えられた憲法によって、自国の領土と国民の生命と財産を自ら守ることなく、それを他人の手にゆだねることこそが最高の理念であるなどと信じこまされたままできた日本人は、「天は自ら助くる者をのみ助く」という人の世の公理を忘れた挙げ句、その自立性を失い自らの発展繁栄のための国家的戦略を立てることが出来なくなってしまったのです。

『国家意志のある「円」』(光文社)

そこで、憲法を一読すれば行政訴訟を起こしても無駄だと分かるように、私権に関する条項を修正することがまず必要だと考えます

日本の多くの識者がかねてから主張しているように、私も憲法は改正しなくてはならないと言ってきました。その際、九条もさることながら、もっと身近な部分から改正することが肝要と考えている。日本がこれから本当に成熟した国家として、社会資本を充実させるためには土地問題が大きな障害にならざるを得ない。公共事業のためにも住宅供給のためにも私有地を巡る財産権の抑制が必要ですが、現在では公共事業による土地収用に対して憲法違反ではないかという行政訴訟が起き、その結果、国や地方自治体が負けることも多々ある。

そこで、憲法を一読すれば行政訴訟を起こしても無駄だと分かるように、私権に関する条項を修正することがまず必要だと考えます。

つまり、イギリスのいう、イギリスの国土はもともとすべて国王のものという観念の裏返しで、狭小な日本の国土はもともと国民すべてのもの、という考え方にのっとって私権を制限すべきなのです。

『断固「NO」と言える日本』(光文社)

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