石原慎太郎の理念・思想

教育論

他人を愛することを教える

心の通う真の友人が、自分以外の自分であるとするなら、われわれはたとえその友人と2人きりでも、孤独でいる時の数百数千倍の充実を味わうことができる

心の通う真の友人が、自分以外の自分であるとするなら、われわれはたとえその友人と2人きりでも、孤独でいる時の数百数千倍の充実を味わうことができるのです。

フランスの画家・ミレーが貧乏のどん底にあえいでいるころ、すでに新進画家だった親友のルソーは名前を偽ってミレーの絵を買ってやったそうな。

私の友人のことばではないが、人生においての難事の折に、親はすでにみまかっておらず、兄弟は離れて姿もなく、けっきょく身近にいる友人によって救われささえられるということが往々にあるものです。

そうした心の友は、長じて、いくらあわてて求めても得られるものではなく、やはり子供の折から、友情の価値というものを教えることによって心の友を選び、捜し求めるという人生の姿勢を持たせていかなくてはなりません。  

『いま魂の教育』(光文社)

博愛とか献身奉仕という人間にとって最高の美徳も、まず子供のころ自分にとっての競争者を敬い、友情を感じるという姿勢によってつちかわれるはずです

博愛とか献身奉仕という人間にとって最高の美徳も、まず子供のころ自分にとっての競争者を敬い、友情を感じるという姿勢によってつちかわれるはずです。

学校での勉強にスポーツに、子供たちはそれぞれ、親には知られずとも自分の競争者、敵を持っているものですが、そうした相手に敵愾心ではなく友情を持つことによって、どれだけその競走なり戦いが楽しく幅あるものになるかということを、親はいろいろな機会に説いて教える必要があると思います。

『いま 魂の教育』(光文社)

長幼の序といっても、青年と老人ということになれば、青年のよさ悪さを老人の体験が補い、二つの世代の融合によって、さらに大きな飛躍というものが説かれ得るはずです

年功序列主義というのは、社会に柔軟性を欠き、社会の新しい可能性、飛躍の可能性を摘んでしまうものです。そうした反省から、民主主義社会の中では、才能、能力に対する黙約があり、能力、才能がある人間は、それに応じた処遇を与えられることになっています。つまり機会の平等主義で、けっして結果の平等ではない。しかし現代では、ともすると能力主義、才能主義が過剰になって、そうした範疇以外での生活、人間関係までが殺伐としてきています。

長幼の序といっても、青年と老人ということになれば、青年のよさ悪さを老人の体験が補い、二つの世代の融合によって、さらに大きな飛躍というものが説かれ得るはずです。

私はむしろ年功主義よりも実力主義を好みますが、しかしなお、過剰に普遍化された実力主義というものの殺伐さへのブレーキをして、ある側面で長幼の序の価値がとかれるべきではないかとも思う。

『いま魂の教育』 (光文社)

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