石原慎太郎の理念・思想

教育論

父親が子に伝えるべきものとは

たとえば父親がもつその哲学に、子どもたちが強く反発してもいい。そこには、その反発をスプリングボードにした子どもたちの人間的な飛躍がある

たとえば父親が持つその哲学に、子どもたちが強く反発してもいい。そこには、その反発をスプリングボードにした子どもたちの人間的な飛躍がある。

父親は、その哲学の実践の成果において祖父をしのがねばならず、そして父親の子どもたちは、同じように、その父をしのがねばならぬ。そこにはじめて家族における人間の進歩があり、その進歩が束ねられて、人間の社会全体の発展があり、進歩がある。

人間の繁栄進歩という巨大なピラミッドをつくる、その拠点である家庭の、さらにその無形の拠点ともなる、いきるということへの哲学を、父親は自分という、たとえ平凡に見えながらも、そのじつはかけがえのない個としての存在への強い自覚のうちに持たなくてはならない。

『スパルタ教育』(光文社)

我が家の個性、性格を決めるものは父親である、おやじである。おやじでなくてはならぬと、わたくしは信ずる

我が家の個性、性格を決めるものは父親である、おやじである。おやじでなくてはならぬと、わたくしは信ずる。

なんといっても父親は家族の支柱であり、その家の主宰者である。かれはその結婚前すでに、男としての個性をもち、それをやがて自分が持つ家に反映し、家をつくり、家族をつくりあげるためにふさわしいと信じて、一人の女を選び、妻にするのである。

女が男に積極的に求婚するならべつだが、世の習慣が、求婚を男の義務と黙認しているかぎり、女上位などというものはたわごとでしかない。

家の性格、そこに生まれてくる子孫の性格は父親が与えなくてはならない。その父親は現代の慣習、あるいは法律さえも越えた、自分の個性を十全に表現しきる彼自身の人生の法則を持っていなくてはならぬ。

それは、その家の家訓となり、家風となり、家族の心の掟ともなる。

そして、そのおやじの哲学こそが、みずからがその代に主宰する家と家族を、先祖たちにまして、みずからの手で培い、繁栄させ、自分の先代までの祖先ができなかった大きな人間の仕事を、自分でもなし終え、子供たちにしとげさせていくよすがになりうるのだ。

平凡が美徳のように錯覚されている、この画一化された時代に、画一化された男が、どこにでもあるような人生観を持ち、どこにでもあるような家庭をつくったところで、それがなにになろうか。

『スパルタ教育』(光文社)

父性の解釈はいろいろあろうが、教育における父性とは子供をしたたかな強い個を備えた人間に育てていくことだと思います

父性の解釈はいろいろあろうが、教育における父性とは子供をしたたかな強い個を備えた人間に育てていくことだと思います。世の中はすべて競争原理で動いているのだから勝ったり負けたりの繰り返しで、そんなストレスに耐えられる強い個が欠落していてはとても一人前の大人にはなれはしない。学校なら学校という一つの社会のなかでも当然競争があります。学業もあるし、体育もあって、自ずと格差というものがついてしまうがそれはそれでしかたないし、人の世の当然です。

ところが奇怪なことに「負ける子がかわいそう」とか「遅い子が傷つく」などの理由で徒競走をやめたり、やっても同じ実力の子ばかり選んで組分けし走らせたり、遅い子を距離の短いインコースを走らせるとか、途中でくじ引きをさせて実力以外の要素を加えるなどの訳のわからないことまでやって、なるべく速い遅いの差をつけないようにしている学校が結構あるというのだからあきれたものだ。

『父なくして 国立たず』 (光文社)

どうも、この現代になればなるほど、家庭の中でも、社会の中でも、父親すなわち男というもののイメージは薄れていくような気がしてならない

父親というのは、いったい何だろうか。

どうも、この現代になればなるほど、家庭の中でも、社会の中でも、父親すなわち男というもののイメージは薄れていくような気がしてならない。

女が強くなり男が弱々しくなっているという現代の徴候について、ある歴史学者は、「戦争をしている国家、民族というものの中では、つねに男が女より優位であり、女より美しかった」と言っていたが、それは人間に関わる、あるいは歴史に関わるひとつの公理かもしれない。

幸いに、現代の日本では戦争の心配はほとんどありはしないが、そうした極限的な緊張感を失ってしまった、いわばソフト化された文明社会の中で、男と女の位置が転倒し、父親の存在が希薄になるということは、家庭にとっても、人間にとっても、社会全体にとっても、決して幸せなこととは言えないはずだ。

『拝啓 息子たちへ』(光文社)

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